
日本語聖書の中で見よ という言葉が出てくるとき、英語の聖書ではBehold と書かれています。
BeholdとはLook Watch See Meetの 見る = 見えるものを指して「見る」ではなく、不思議なものを見るときに使う「見る」が使われているのです。
見えないものがどうして見える?
でも神様の目を通すときに見えるのです。
それは幽霊が見えるということではなく、聖霊であったり、悪霊であったり、預言であったり…
そして私はそれを見た…
2月17日の日曜日、KBFで賛美をしているとき。
その日は物凄く寒くて、曇り空。そして少し雪。
空が晴れてるはずはなかった。雲の隙間から光が見えるはずもなかった。
それもKBFという屋内に私はいる。
後半の賛美の途中、確かに見た。
雲と雲の隙間にまぶしいばかりの光。
その光の向こうには天使たちが大合唱している姿が。
そうなんだ!
私たちが地上で賛美するとき、天ではもっと凄い素晴らしい大合唱が起きてることを。
賛美するとき、私たちは嬉しいけど、神様はもっと嬉しいということ。
たまに祈りの中で今後が見えることがある。
でもいつもじゃない。
いつ現実に起きるかなんてわからない。
でも確かに起きる。確実に起こる。
周りの誰もわからないと思う。
でもそれが実際に起きるとき= 幻と現実がリンクする時、私にはわかる。
私以外でBeholdがわかる人(預言を見る人)が近くにいることがわかった。
同じKBFの中にいた。
私は祈りの中、そしてふとした瞬間に見えるけど、その人は夢の中。
それも私以上の頻度でその人は見ていた……
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
ヨハネ1:29
彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
黙示録 5:12
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
黙示録 21:3~5
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