2008年3月19日水曜日

イースターを前に


最近ずっと、明日のホーム・パーティの準備をずっとしています。
その中で、ある人のためのサプライズを用意してるんです。
その用意の中心が私!
とってもワクワクドキドキ。
なんか通販で商品を買って、届いて箱を開けて中味を見るまでみたいなワクワクとドキドキの感覚♪

私、誰かに渡すプレゼントを考えたりするのが好きで、何をあげたらいいのかってアイデアは突然浮かんできたりします。
今回もそう♪
打ち合わせの話を電話でSちゃんとしていた時に、そっかぁ~!って感じ★。、::。.::・’゜☆。.::・’゜
今日、雨の中、そのために必要なものを買ってきたんだけど、なんかその時間がもう楽しい!
ただ喜んでくれる姿をみたい。それだけ。
相手が愛する人であろうが、友達だろうが関係ない
そして、やったら何か自分もしてもらえるなんて見返りは求めない

だって、ジーザスって復活という見返りを求めて、十字架にかかって死んだ訳じゃないから。
最初に見返り求めて、何かやるなんてキタナイよ~。
今日そんな話をある人とちょっとだけした。

最近、自分の最期のこともよく考えてて、殉死、殉教なら…って真剣に思う。
誰かのために自分の命を落とす
これで人生を全うできたって、最期の最後まで誰かのために生きられたって…
自分の知ってるありったけの愛を身体を張って伝えられたって思えるから。
やがて天国のゲートに着いたとき、よくやった!と言われて、その奥に通してもらえるなら、それで良い。

思い出すのはもう10年以上前の
1997年だったと思う。

キャンパス・クルセード(CCC)という宣教団体のニューライフ・ミニストリーで2週間滞在予定だった韓国人大学生のこと。
彼らの2週間の滞在期間で1日だけ、滞在中の学生全員と、受け入れチャーチのメンバーが集まって、京都の丸山公園で大イベントをした時のこと。
その年のイベントでは追悼式があって、その大学生のご両親が緊急来日してた。
その数日前にマンションにホームステイしてた大学生が窓から誰かをかばって死んだから。

そしてその2ヶ月後ぐらいに、私はソウルに1週間、韓国クリスチャンの殉教とリバイバルの歴史(日韓併合の植民地時代含めて)、ミッションについてを学ぶ研修に行った。
あの時、何を勉強したかなんて殆ど今、記憶にないけど私のこんな思いのルーツはそこにあるのかも

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ピリピ 2:8~11

今度の日曜日、23日はイースター。
復活を心から感謝し、喜びたい♪

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